□2 馬に水を飲ませる話□
皆さんは、サッカー日本代表の前監督、イビチャ・オシムさんを知っていますか。オシムさんは優れたサッカー指導者であるだけでなく、数学にも詳しく、また独特の言語センスをもっていることでも知られていますね。サッカーには「水を運ぶ選手」が必要だ、という言葉が印象に残っています。水を運ぶのはとても大変なこと。でもそれは誰かがやる必要がある。それをやる選手が必要だ。そんな意味だと思います。
オシムさんの言葉の裏には哲学的なセンスがありますが、元になっているのはヨーロッパに伝わる豊富なことわざや名言でしょう。その中の一つにこんな言葉があります。
「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ますことは出来ない」 [You can take a horse to water but you can't make him drink. あるいは A man may lead a horse to the water, but he cannot make him drink(unless he will).]
これはどんな意味かわかりますか。
飼い主が馬が水を飲みたいだろうと判断して馬を水辺に連れて行っても、馬は水を飲むとは限らない。馬自身がのどが渇いていなければ水を飲んだりしないわけですね。
それと同様に、先生や両親がこの子は勉強しなければならないと判断してあれこれ用意しても、その子ども自身が勉強しようと思わなければ勉強しないわけです。つまり、他の人がどんなに「この子には勉強が必要だ」と思っても、その子自身が「勉強したい」「勉強しよう」と思わなければ、勉強をさせることは出来ない、ということなのですね。
今から70年位前の日本がまだ貧しい時代、子どもが勉強しようと思ってもなかなか勉強できる環境を得ることは出来ませんでした。その中で一生懸命勉強して目標を達成した人もいれば、家庭の事情などで小学校を出ただけで働いた人たちもたくさんいました。
ことわざの馬に喩えて言えば、彼らは「のどがかわいていた」のです。ですから自力で水辺に行き、自力で水を飲みました。
しかし、現代ではどうでしょうか。ほとんどの人が高校に進学し、勉強できる条件はみな整っています。お金がないから進学できないという生徒のためには奨学金や授業料免除などの仕組みも整っています。多くの親が子どもにいろいろな教材を与え、塾に通わせます。塾でも先生たちがあれこれと勉強しやすい用意をしてくれます。
でも子どもたちは水を飲みたいでしょうか。
どんなに周りが頑張っても、本人の意欲がなければ勉強させることは出来ません。子どもの立場から言えば、「やる気を出す」ということにおいて回りの人に頼ることは出来ないのです。「やる気が出ないのは回りのせいだ」というのはそういう意味ではおかしいわけです。本当にやる気を出せるのは自分自身しかいないのですから。
中国の古典、『孟子』に「助長」という言葉が出てきます。苗がなかなか成長しないのを心配した人が、一生懸命苗を引っ張って伸ばそうとしたという話です。結局その苗は全部枯れてしまいました。心配だからといって無理に引っ張って伸ばそうとしてもだめだ、ということをいっているわけです。
大人になったとき、自分のやりたいことは何だろう。自分のやりたい仕事は何だろう。あるいは、どういう仕事が自分に向いているのだろう。そのためにはどういう勉強が必要なんだろうか。あるいはもっと直接的に、身近にいる大人を見て、自分はこういう人になりたい、と思うかもしれません。そうなれば、自分がどういう勉強をしなければならないかということも分り易いですね。そんな風にして、自分から勉強をする気持ちを伸ばしていく、やる気を出していってはじめて、水を飲むことができるのです。
回りができることは限られています。勉強するのは皆さん自身なのです。
やる気を出して、今日から勉強してみませんか。